聖書のみことば
2022年4月
  4月3日 4月10日 4月17日 4月24日  
毎週日曜日の礼拝で語られる説教(聖書の説き明かし)の要旨をUPしています。
*聖書は日本聖書協会発刊「新共同訳聖書」を使用。

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■音声でお聞きになる方は

4月24日主日礼拝音声

 復活の体
2022年4月第4主日礼拝 4月24日 
 
宍戸俊介牧師(文責/聴者)

聖書/ルカによる福音書 第24章36〜53節

<36節>こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。<37節>彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。<38節>そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。<39節>わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」<40節>こう言って、イエスは手と足をお見せになった。<41節>彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。<42節>そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、<43節>イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。<44節>イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」<45節>そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、<46節>言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。<47節>また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、<48節>あなたがたはこれらのことの証人となる。<49節>わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」<50節>イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。<51節>そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。<52節>彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、<53節>絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 ただいま、ルカによる福音書24章36節から53節までをご一緒にお聞きしました。36節に「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」とあります。
 「こういうことを話していると」と始まります。ここから分かることは、今日聞いている箇所が先週聞いた箇所の続きの出来事だということです。主イエス・キリストが復活なさったという話を耳にしながらどうしてもそのことを信じられず、生まれ故郷のエマオに向かって歩いていた二人の弟子たちに、復活の主御自身が歩み寄ってくださいました。この二人は深い信頼を主イエスに寄せ、また期待もしていたのですが、そのイエスが十字架上に亡くなったと思い、深い嘆きに捕らえられていました。嘆きで心がいっぱいになっていたために二人は、今自分たちに寄り添い歩いておられる方がどなたであるのか、最初は分かりませんでした。
 けれども、二人にとって見知らぬ旅人のように感じられたこの第三の人物が聖書について説き明かし、更に共に宿った家でパンを取り賛美の祈りを捧げ、両手でパンを割いて弟子たちに与えられる、そうするうちに二人の目が開かれ、自分たちに伴ってくださっていたのが甦りの主イエス・キリスト御自身だったということが分かるようにされたのでした。主イエスが歩みに伴ってくださり、御言葉を説き明かしてくださる中で、二人の心は温かに燃やされるという経験もしました。
 「こういうことを話していると」とは、このように、「復活の主が伴ってくださり御言葉を説き明かしてくださった。それによってとても温かい心にされた」、そういう経験を、二人の弟子が仲間の弟子たちに話していたということです。

 けれども、このように話している弟子たちのもとに甦りの主イエス・キリストが親しく訪れてくださったこの時、弟子たちはまるで亡霊か幽霊にでも出会ったような思いになって恐怖に捕らわれました。37節に「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」とあります。
 こういう聖書の言葉を聞きますと、たとえ主イエスの直弟子たちといえども、主イエスの復活を了解し悟るということがどんなに難しいことだったかということが分かります。
 私たちは誰もがそうですが、一度完全に死んだ人間が甦るとはどうしても思えないようなところがあります。私たちは「主イエス・キリストは復活した」と知っているつもりになっているかもしれません。しかしよくよく考えますと、案外、「主イエスの復活」というのは聖書の中の話として知っているだけかもしれません。甦られた主イエス・キリストが共に歩んでくださっていると分かっているつもりでも、しかし本当に生々しく「わたしの生活の中に復活の主が歩んでくださっている」と感じているだろうかと思わされます。復活の主が共にいてくださると分かっているつもりでも、今日の記事に出てくる弟子たちのように、もし本当に復活の主がいらっしゃるということが明らかになる時には、ことによると私たちも恐れおののいてしまうかもしれません。主イエスが私たちに伴い、慰めを与え、祝福してくださろうとしているのに、私たち人間はなかなかそのことが分からないのです。
 主イエス・キリストは、弟子たちがそのような弱さや脆さを宿しているということをご存知なので、この人々を訪れ、その中央に立って、「わたしは確かに甦り、あなたがたと共にいる」ということを分からせようとしてくださいました。

 ところで、ここで主イエスは弟子たちに向かって、「あなたがたに平和があるように」と言ってくださいました。この言葉に注目をしたいのです。
 「平和があるように、安かれ」と訳される言葉は、主イエスが話しておられたアラム語、あるいはヘブライ語でも同じようですが、もともとその発音は「シャロームラーケル」という言葉で、「おはようございます。こんにちは。こんばんは。さようなら」という生活の様々な場面の挨拶に使われる言葉です。省略して「シャローム」と一言で終えてしまうこともあります。従ってここでの主イエスの言葉を単純に、「おはよう」と朝の挨拶をなさったのだと受け止めて、それで分かった気になってしまうことがないでもありません。けれども果たしてそうだろうかと思うのです。この言葉には、もっと深い主イエスの御心が込められているのではないでしょうか。
 というのも、これは特にヨハネによる福音書の中に念入りに記録されていることですが、主イエスは十字架にお架かりになる直前、弟子たちに向かって御自分の十字架の死と復活について教えられた時に、しきりに「わたしの平和を与える」とおっしゃっておられました。例えばヨハネによる福音書14章27節には「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」、あるいは16章31節から33節には「イエスはお答えになった。『今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている』」とあります。特に16章で主イエスは、主イエスのことを信じて従っていると思っている弟子たちに向かって、実際には弟子たちが自分で思っているよりもずっと弱く脆い者であり、主イエスが逮捕されたら散り散りになって自分の家に一目散に逃げ帰ってしまうこと、そして弟子たちに見捨てられた主イエスは一人になってしまうのだということを、前もっておっしゃっておられます。けれども続けて主イエスは、弟子たちに見捨てられても「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」と言われました。そして、「父なる神との交わりの中にある。父なる神が顧みてくださるところで、すべてに勝利する力を与えていただける」、そういう「父なる神との交わりが確かに保たれている状態」を「平和」と言われました。

 そしてさらに言えば、このように神と主イエス御自身の間に確かな交わりが成り立っている、そういう平和を「弟子たちにもお与えください」と、この後、祈っていかれます。ヨハネによる福音書17章11節に「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」とあります。主イエスは、「どんな時にも父なる神と共に歩む。神に共に歩んでいただいていることに支えられ、苦しみの中も過ごしていく」、そういう「平和」をご存知でした。そしてそういう平和を、御自身が地上を去るその時に、弟子たちにも贈り物としてお与えくださいと祈っておられるのです。「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」とは、弟子たち同士が仲良くなって一つとなるということではなく、「神と弟子たちが一つとされる」という意味です。主イエスがおっしゃる平和というのは、父なる神との平和です。神がいつも自分のことをご存知でいてくださり、どんな場合にもしっかりと捕えていてくださって、たとえ困難な状況に置かれる時にも、そこでなお神が持ち運び、険しい道を導いて歩ませてくださる、そういう平和が与えられるのです。
 そしてそれは、まさに主イエス御自身が地上の御生涯を辿っておられた間、ずっと経験しておられたことでした。主イエスは、本当に途方に暮れるような中にあっても、「神がわたしを守ってくださる。きっと終わりまで歩ませてくださる」、そう信じて歩んでおられました。そういう神との平和を、「どうか弟子たちにもお与えください」と、主イエスは祈ってくださるのです。
 主イエスがそのように祈っておられたことを踏まえて、今日の箇所での主イエスの挨拶を聞くならば、「平和があるように」というのは、単なる「おはよう」という挨拶ではないということになるのではないでしょうか。「いつも神さまの恵みの御支配のもとに置かれて、神さまの慈しみと憐れみの中を生きることができますように」という祝福を、弟子たちに与えようとしておられることが分かるのではないでしょうか。

 ところが、このように主イエスが弟子たちの中央に立って、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃってくださっているのに、弟子たちの側は、「これは亡霊ではないか」と言って恐れたというのが今日の話です。エマオに向かっていた二人の弟子たちは、甦りの主に伴われながらも、自分たちと一緒に歩んでくださっている方がどなたか分かりませんでした。それと同じように、他の弟子たちもまた、自分たちの中央に主イエスが来られ、神との平和を一人一人に与えようとしてくださっているのに、「甦りの主イエスが来てくださって、私たちに祝福を与えようとしてくださっている」とは気がつかないのです。
 それで主イエスは、ここで二つのことをなさいました。

 一つは、御自身の手と足を弟子たちの前にお示しになりました。主イエスが差し出してくださった手と足には、まだ十字架の釘跡が、その傷が生々しく残されていたに違いありません。それによって、「確かに今ここにいるのは、あの十字架につけられたわたし、イエスなのだ」ということをお示しになりました。またもう一つは大変ユーモラスな話ですが、弟子たちの前で焼き魚を召し上がられたと言われています。それによっても、主イエスが実態のない亡霊などではなく、確かに甦りの体をもって、今、弟子たちの間に来ておられることを示そうとなさいました。39節から43節に「『わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」とあります。
 このように、主イエスは御自身が確かに肉体を持っていることをお示しになり、そしてまた、エマオに向かっていた弟子たちになさったことと非常によく似たことをなさいました。ここでも旧約聖書の言葉を引用しながら、神の約束と神のなさりようについて説明をなさり、そして、御自身が御言葉の通りに「復活している」ことを教えられました。44節から48節に「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』」とあります。主イエスは弟子たちの間に来られ、親しく御言葉をかけてくださり、聖書の御言葉を説き明かされます。そして、そういう交わりの中に受け止められながら、弟子たちは次第に、「主イエスは本当に甦って、共に歩んでくださっているのだ」ということを合点するようにされていくのです。

 主イエスは、御言葉の説き明かしによって御自身の平和を弟子たちに与えようとなさいました。これは神との交わりのうちに成り立っている平和ですから、永遠の平和です。決して一時的なその場限りの休戦のようなものではありません。主イエスが与えようとしておられる平和が特別なものであるということを、この後、主イエスは独特な仕方で表されました。 50節51節に「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」とあります。この状況が具体的にどのようなものであったかということを説明するのは非常に難しいのです。ここに言われている「天」は、私たちの頭の上に広がっている大空ではないからです。
 「天」というのは、神に直属するような領域とでも言った方がよいような領域です。それは、私たちが普段生活しているこの地上とは全く異質な領域です。本来、「天と地」がどこかで接したり交流したりするはずはないのです。ですから主イエスが天に上げられたというのは、この地上の低い場所から高い場所に移動したということではなく、私たちが暮らしているこの世界から、神に直属する普段私たちが知らないような領域に入って行かれたということが言われています。従ってこれを、私たちの感じ取っているイメージで描き切ることは大変難しい、困難なことだと言わざるを得ないのです。

 しかしまさに、主イエスが天に上げられ、天に昇られたことによって、神御自身と地上を生きる私たちが、この主イエスというお方によって堅く結びつけられているのです。
 主イエスが天に上げられ天に入って行かれた時、天と地を結びつけてくださった時の様子が50節に「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された」と語られています。「あなたがたに平和があるように。あなたがたにわたしの平和を与える」と主イエスがおっしゃり、なさったことは、別に言えば主御自身が天に入って行かれながら「弟子たちに祝福を与える」ということでした。

 主イエスが祝福なさるとは、どういうことでしょうか。もともとのギリシャ語では、「祝福する」というのは誰かのことを善く言うとか、褒める、あるいは誰かのことを好ましく思う、好意を寄せるという言葉です。誰かを咎めたり非難したりするのとは真逆の言葉です。
 そう思えば、主イエスが手を上げ、弟子たちを祝福してくださったということは、なんと嬉しい言葉ではないかと思います。
 主イエスが祝福のために手を上げてくださった、その両手は、先ほど弟子たちが見せていただいたばかりです。そこには生々しく十字架にかけられた釘跡が残されています。血が流れた形跡がそこには残っています。それは、主イエスが人間の罪を身代わりになって受けてくださった傷なのです。ところが主イエスは、その両手を上げて弟子たちを祝福してくださっているのです。「よくも傷つけてくれたな」となじるのではなく、「わたしはあなたを好ましい者とみなす」とおっしゃってくださるのです。

 この方は、私たち人間のことを本当によくご存知です。それは誰か特定のこの人あの人を知っているということではなくて、まさしく人間がどういうものなのかということをご存知なのです。この方は、遂には私たち人間のために鞭打たれ嘲られ十字架につけられてしまいます。そして、その傷をお持ちです。この方によって私たち人間は自分自身の惨めさも思わされますし、恥ずべき罪を犯していることも思わされます。しかし、この方は十字架によって私たちの罪を肩代わりしてくださっているのです。この方は私たちに代わって神の厳しい裁きをお受けになり、永遠の断罪をお受けになりました。
 人間のために辱められ、抑圧され、蔑まれ、退けられ、傷をその身に負う、それでもそういうお方が弟子たちを祝福し私たちを祝福してくださるのです。「それでもあなたは、なお好ましい者である」と語ってくださり、好意を寄せ、私たちが生きることを喜んでくださるのです。
 私たちが歩んでいく一切のことはこの方の祝福にかかっている、そう言ってもよいのではないかと思います。私たちは普段、何事もない時には自分で立派にこの地上を生きているようなつもりで生活しています。しかし、何かひとたび思いもしないようなことや困難や苦しみに出会ってしまうと、自分がどんなに寄る辺なく弱い者にすぎないか、本当は自分が生きる力も何もないのだということを思い知らされたりします。時には、そういう中で打ちのめされて、「もう生きていても仕方がない」と諦めてしまうことがあるかもしれません。
 しかしそういう私たち人間に、主イエス・キリストがなお祝福を与えてくださっているのです。「それでもあなたは良い者なのだ。ここで生きていてよいのだ。ここからもう一度始めてよいのだ」とおっしゃいます。「あなたがたに平和があるように」という挨拶は、人間同士の争いや戦いが一時的に中断されるような話ではなく、神が本当に私たち一人一人のことを「あなたは好ましい」とおっしゃって、好意を寄せてくださる、その中に私たちが生き始めるということです。

 ですからここには、47節「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と言われます。罪の赦しを得させる悔い改めが、「主イエスの名によって」あらゆる国の人々に宣べ伝えられ、及んでいくようになるのです。私たちはいろいろな惨めさや恥ずかしさを抱えています。けれども、そういう罪ある自分が赦され、もう一度ここから生きて良いと言われている、十字架の死から甦られた主イエスが私たちを祝福してくださっている、私たちはこのことを信じて歩んでいくのです。

 今日ここで私たちが聖書から聞かされていることは、私たちが毎週の礼拝の中で経験させられていることではないでしょうか。毎週の礼拝の中で、私たちはいつも、「十字架に架かった主イエス・キリスト」の話を聞かされます。「私たちの罪のために十字架にお架かりになった方がいらっしゃる。けれどもその方が私たちを招いて祝福を与え、神さまの平和の中を生きるように私たちを導いてくださる」のです。私たちは毎週そのことを知らされ、感謝して神を誉め讃えて生きていきます。
 主イエス・キリストの祝福が私たちの上に与えられているように、私たちは、今度はその祝福を知る者として、感謝し生活をしながら、その生活を通して、さらに多くの方々に「あなたの上にも神さまの祝福が与えられている」ということを伝えるようにされていきます。

 主イエスはこの祝福を与えるために、弟子たちをベタニアの郊外へと連れ出したと最後に短く言われています。私たちもそうなのです。私たちは、「神の祝福、主イエスの祝福」を、それぞれ自分の家で横になりながら聞くのではありません。普段の生活の場所からこの教会へと、少し離れた場所に集められ、主を讃える群れの中に招き入れられます。そして、ここにおいて確かに、復活し生きておられる主イエス・キリストの体に抱かれながら、御言葉によって励ましと勇気を与えられ、神の平和と祝福を聞かされるのです。
 私たちはそのようにして、私たち自身も神の慈しみを伝える者として、ここからそれぞれの生活へと押し出されたいと願います。

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